昭和43年4月21日 朝の御理解 テープ№43-058-B-1
中村良一
折角、信心をさせて頂くのでございますから、おかげを頂かなければなりませんが、そのおかげも、神様に喜んで頂くようなおかげという事を、私、何時も申しますが、神様に喜んで頂く様なおかげというのは、どういうおかげであろうかと。例えば、お食事をさせて頂くでも、同じ腹いっぱい、同じままになるとこう言う。ままになり方が、色々あると思うんですよね。それこそ、がつがつとその、まぁ、食べるですね。行儀よく頂くと。それは、食べる事に於いて、内容は同じであっても、その、食べ方が違うですね。その辺を汚し散らかし、こぼし散らかしてから、それこそもう、がつがつして頂くという、頂き方と、行儀よく頂く頂き方とがある。いわゆるその、行儀よくおかげを頂いて行く。行儀のよい信心をさせて貰うという事なんです。がつがつした頂き方。もう、おかげさえ頂きゃええ、食べさえすりゃええという様な頂き方ではなくてですね。行儀のよい頂き方を身につけたい。そこんところを、教祖様は、信心する者は、何事にも、信心になれよと仰っておられる。
四神様は、表ばかりを大事にして、裏を大事に致しませんと仰っておられます。目に見える所ばかりを大事にして、目に見えない所を、おろそかにしていますと言うておられますね。そこでその、おかげを頂くと言うても、やはり一つの、順序というものがある。順序正しいおかげを頂く。おかげおかげと、がつがつしないで、何事にも、信心にならせて頂いて、おかげを頂く。信心を頂いて、おかげを頂く。お徳を受けて、おかげを頂く。ただ、おかげさえ頂けばよいという、その、おかげおかげで、という頂き方は、これは、行儀のよい頂き方じゃないという風に思うですね。
昨日、菊栄会の方達が、私を含めて、一人、行けない人がございましたから、私、ともに、十名でした。九時から発ちましてから、福岡で、福岡の玉屋で、古伊万里陶器の、何か見せて頂くおかげを頂いて。それからまた、竹田の、まぁ竹田祭りという、(田能村)竹田という、大変有名な画家が居りますですね。その方の、絵を、まぁ一同に集めて、もう、ああいう竹田なんかの絵を、あんなにいっぺんに、沢山見れるなんていう事は、またと見られまいと思われる様に、立派な絵ばかり、見せて貰いましたんですけれども。そん時に、そこの係りの方が、言うてましたね。竹田の絵はですね、百本あるならば、百二十本、偽物があると言うてました。まぁオーバーな言い方ですね。そんなに、本当なものはないという事です。百本あれば、百二十本偽物があるち言う。けども、やはり、さぁ、偽物であるのがあるかも知れんけれども、それを見せようというのですから、やっぱり、見事な絵やら写真をね。中には、あの竹田が、亡くなる何日前にか描いたという絵です。描いたものがございましたが、本当にあの、描いておる、その内容から言うてもです。もう、今日、自分が終えるやら、もう、明日逝くやら分からないという様に、重体の中にですね。筆を取ってる。その気迫というか、描いておる内容なんかが、立派であるのに感心しましたですね。一昨日も、まだ死んでいなかった。昨日も、まだ生きておった。今日も現在、ここに、こうして、生きておる。明日、命があるやらないやらも分からない、というようなその、切羽詰まった人間の、ぎりぎりのところの感じをね、日誌にして書いてあるんです。まぁ、死ぬるまで、充実した、生き方をしようという様な意味の事が書いてあった様に思う。どうか分からないけれども。そういう様なもう、本当に良いものを見たり、接する事はもう、本当に、心が清められる気が致しましですね。良いものを見ますと、もう、心が、確かに落ち着きます。もう、古伊万里の陶器なんかを見せて頂いたんですけれども。本当に、それは素晴らしい。
それから、二日市の、何とかという禅寺がありますね。何とかち言いよりましたが。そこで、あの、精進料理で、昼食をさせて貰って、もう、一時も過ぎておりました。私達、そのまぁ、あーた方は、まぁ、そこの、お尚さんが言われるんです。なんか、今日は、あーた方、ご法事かなんかあったつですかち言われますですもん。御法事の帰りに、やっぱり、精進料理なんかが、食べに行くとが多いらしいですね。そんな訳じゃないですけれども。いやあの、坊さんが居られる様ですけども、私をボンさんと思うてあった。ボンさんが居られるから、ボンさんが、そのね、みんな一緒に連れて来とりなさると思いなさったごたる風で。それから、まぁ、そこで、まぁ本当に、私は、精進料理は、初めて頂きましたが。本当に、それはもう、どんなものでも頂けると思いましたですね。山の蘭の花とかね、その茎を頂きました。まぁ、珍しいものが沢山出ましたが。やはり、生臭きを取ってはならないので、美味しく、しかも、栄養も考えてあるのですから。大変な、いろんな工夫が凝らしてあります。
そこで、お尚さんが、私共に、食べる作法を、一通り教えられたんですけれどもね。ご飯を頂く時に、絶対、物を言うちゃならんですね。お食事をする時に。もうそれは、百人のボンさん方が頂かれるそうですね。それでももう、物音ひとつない。付け物をかむ音すらせん、さしちゃならない、という様な、厳しい、その行儀の中に、お食事をするんですね。だから、もう少し下さいとかね。もう少し軽く下さいなんかとも言われん。だからもう、手真似。だから、もう少し下さいと言う時には、手のひらを、こうして、ここで、こうこして、揉まにゃいけん。こげんする時には、はぁ、もう少し余計注がにゃん時。それで、もうよかち言う時には、ほら、ぱっと払わにゃいかん。ぱっと。それが、もう、そりゃ多過ぎる、多過ぎると言う時には、こうして払わにゃいかん。そっでもう、菊栄会の連中はみんな、今日から、そげなこつしてやるでしょうね、そげん習うてきた。もの言わんでするコツを。またそれを、注いで持って来て貰うまでは、こうして合掌しておかねばいかん。それを受けるまでは。という様な事を、初めて聞くお話を聞かせて頂いたんですがね。まぁ、そういうその、行儀もあるけれども。まぁ私共は、そんな訳に参りませんから。それでもやっぱり、お食事をさせて貰う時には、行儀よい頂き方をしなければ、がつがつしたのは、やっぱ下品です。下作い。ですから、やはりあの、まぁ、普通で良いから、行儀のよい、頂き方をして貰わにゃいけん。
それからもう、あちらで、三時ぐらいになりましたでしょうか。それからあの、温泉ホテルに参りました。それこそもう、そこには、お偉方様が、一回お泊りになったというお部屋でした、貴賓室ですから。それに続いておる茶室なんかは、まぁだあの、茶道具が、一杯寄せとございましたけれども。まぁだ、符丁の付いたまま、まぁだ使ってない様なお部屋でした。本当にあの、まぁそういう、良い雰囲気を満喫させて頂いた訳でございますけれども。昨日はもう、本当に、行儀のよい、皆さん、お神酒を頂くでも、十人で、お神酒一本ですからね。ところが、そこの仲居さんが、私達を覚えておられたんですよね。もう、三年前に行ったんです。よう本当に、ところが、三年前にはもう、大変に、どんちゃん騒ぎをしてる訳です、そこでですね。それから印象に残って、今日は、あんまり行儀よう、皆さんがしておられるから、たまがったち。そら、やっぱり、自分達が、幾らでも成長しとるから、行儀が良くなったとですよと言うてから、頂いた事ですけれどもね。その、どんちゃん騒ぎをして良いの、悪いのじゃないですけれども。そういう中に、頂きますでも、やはり、そこに、一つの信が貫いておると言うかね。何をするにも信心になれと仰る。そういう様なものが、やはり、なからなければならぬ。 本当にあの、行儀を良くしておるという事は、とても気分のいい事ですね。それで、まぁ、二三時間、ゆっくりさせて頂いてから、合楽に帰らせて頂いたんですけれども。とにかく、私は、信心に、それを、今日、結びつけさせて思わせて貰うのに。せっかく、おかげを頂くならですね。その、行儀のよい頂き方をしなければ、神様は、喜んで下さらないと思うです。
例えば、神様は、せっかく、こうやって、お膳立てをして下さる。それを、あれをお粗末にしたり、これを頂いたり、または、頂き過ぎたり。かえって、そのために胃を悪くしたりという様な頂き方じゃない。おかげを頂いたために、おかげを落としておられる。そういう事では、本当に、相すみません。ほんなら、おかげを頂くに致しましてもです。粗末な頂き方。まぁあれが、最高の食べ物と言うのでしょうね。もう本当に、それは、吟味した上にも吟味された、その、私が、昨日始めてその、北海道の何とかという魚を頂きました。大体、石狩山荘と言うのは、北海道の方らしいですよね。ですから、そんなものが、珍味が寄せてある訳です。ですから、もう、美味しいものだからという訳じゃないですけれども。もう本当にあの、食前に出たそれを、これは、私だけじゃない、皆さんが、綺麗に、菜っぱ一枚でも残さんように、綺麗に頂いた。何かあの、かしわの揚げた下に、敷き物がしてある。それに、リンゴを輪切りにしてですね、中をくりとって、それを蒸したものかなんかでしょうね。焼きりんごと言うものでしょう。それが、それの台になっている。だからその、台は食べちゃいかんとです。それでも、やっぱ、台を美味しゅう、もう、本当にもう、みんな綺麗に頂いた。それからと言うて、その、がつがつして頂くというのじゃなくてですね。本当にあの、禅寺で習って来た、その精神で頂かせて頂いたという様な感じ。もう本当に、コックさんが、喜ばっしゃろうと思う様な、あれだけきれいに、何でも頂きますからね。ようにその、神様が、せっかくだして下さるおかげをですね。私共が、それを粗末にしておる。それでは、やはり、神様が、喜んで下さらない。結局、行儀のよい頂き方と言うのを身につけなければいけない。お互い、思うてみますと、本当にあの、行儀の悪い頂き方をしておるのじゃなかろうかとこう思うんです。
そこで、ほんなら、どういう様な、私共が、精神にならせて頂いたら、行儀よく頂かれるか。いわゆる、きちっとした、ままになるおかげになるかという事はですね。私共が、おかげをおかげと言うてその、おかげおかげに、がつがつすると、どうしても、自分の、好きなもの勝手に頂く様な形になって参ります。前に、一杯、並べられどもすると、もう、好きなものから。そして、嫌いなものは粗末にしてしまう。それでは、腹いっぱいになるおかげを頂いても、やはり、お粗末な頂き方と言わなければなりません。それを、がつがつする様な頂き方が、ほんなら、人間が人間の食事の食べ方を見ておって、何て下作い食べ方じゃろうかという様に、神様がですね、何と不行き届きな、おかげの頂き方じゃろうかと、こう思いなさったんじゃ、おかげは受けられない。そこで、私達が、思わせて頂きますのはね。やはり、天地の親神様が、食物は、皆、人の命のために与えて下さったものであるからとして、命のために頂かせて貰うと言う。それを、本当に、神恩に感謝しながら、頂かせて貰うように。私共が、幸せになるために、様々な問題も、それは、難儀な問題もあるという事。ただ、こちらの味付け加減一つで、美味しゅう頂けるものを粗末にしては、おかげは頂かれませんがです。それで、結局、どういう事になるかと言うと。四神様の御教えにあるようにですね。形に見える所ばかりを大事にして、目に見えない所を粗末にしておりますとこう仰る。なぜ、そうするかと言うと、なぜ、そういう事が結果になるかという事。お互いが、おかげさえ頂きゃ良いと思うとるから、そういう事、結果になる。腹いっぱいになりさえすりゃ良いと。おかげさえ頂きゃ良いと。そこで、おかげさえ頂きゃ良いという信心じゃ、必ず、行儀の悪い食べ方になる。そこでね、お互いが、御神徳を頂かせて頂く事が信心だと。御神徳を受けさせて貰う。身に神徳を受けさせて貰うという事が、目的であるという事になればです。神様に、人から笑われなくても、神様から、笑われるような事はないだろうか。いや、むしろ、表よりも裏を、かえって大事にするだろう。そういう、私は、生き方。ですからその、目指すところはです、ままになりさえすりゃよいというのではなくて。御神徳を頂くと、信心を頂かせて貰うと。いわゆる、何事にも信心になれよと仰る、その信心を頂かせて貰うという生き方。それには、お徳が伴わない筈はない。けれども、おかげだけを頂く、腹いっぱいさえなる。現在、困っておる、その事が解決さえすりゃ良い。それを頂きさえすりゃ良いという様な頂き方は、頂く事によって、かえって、胃腸を壊したり。それが居りどもすると、それをお粗末にしたり。いわゆる、頂いたおかげで、かえって、おかげを落とすというような結果になりかねないのです。お互いが、信心の行儀と言うと、やはり、きちっとした信心。それに、きちっとしたおかげが頂かれる。
これは、まぁ、私が、須田先生が、御用という事を、私が発明したと仰っておられたようにですね。信心の節度という事は、私が、発明したと、私は思うです。聞いた事が無い。これは、私は、もう昔から、それを言うてきた。信心に節度を持て。こうと決めたら、これをもう断行せよ。まぁ、そういう意味合いで、私が、あの椛目時代から、五時の御祈念なら、五時の御祈念と決めたらもう、一秒間でも切っちゃならん。皆さんは、ここより他は知られませんけれども。私共が、縁あって、あちらこちらの教会を頂きますけれど。そら、御祈念は、五時なら五時、六時なら六時と決まっておるけれども。それが、三十分遅れたり、十分遅れたりという様なことは、もう、当たり前のような。しかし、あれでは、おかげが乱れる。おかげが十分遅れる。おかげが三十分間違うてくる。これは、私の信念です。ですから、こうして、一週間なら一週間、朝参りをする。例えば、こう決めたら、本当に、それをね、やはり、やってのけなきゃいけん。そこを、しだごだにするから、おかげの方も、やっぱ、しだごだになる。だから、こうと、神様の前に思わせて貰うた事、決めさせて頂いた事はですね。そこんところを、やってのけれるおかげを頂かにゃいけん。それを、私は、信心の節度と、こう言うて参りました、だから、おかげの方にも、きちっと、節度の付いたおかげが現れてくる。
誰かのお話に聞いたんですけれども。ああいう、慰安旅行なんかに出ましてですね。一番、料亭なんかで、だらしが無いのは、宗教家と、教育家だと言われております。仲居の女中さんあたりが、もう、学校の先生達ばっかりぐらいもう、ろくそな、いわば、汚い。もう宗教家ほど汚い。もう、することが汚い。汚いというのが、その、臆面もなしに、まぁ、汚い事をやってのけるという訳なんですね。というのは、学校の先生だから、もう生徒達の前では、何時もこう、聖人君子のようにしとかにゃならんと言うのが、そういう時、爆発するんですね、きっと。宗教家と言う、その、レッテルを貼られておりますからです。仏様に仕える身が、神様に奉仕をする人が、こういう事であっちゃならん、ああいう事であっちゃならんと、その、言われ、自分も思うておりますから、日頃、一生懸命にしておるけれども、まぁ、人の知らない世界に行って、さぁ、御神酒が一杯座ると、そこにですね。もう人間の、いわゆる、汚さが、一遍に浮き出しでてしまうという訳なんです。かえって、普通の人の方が行儀が良いと言われておりますがです。金光様のご信心をさせて頂く者は、しかし、それでは、お徳が受けられないです。そういうところであれば、ある程に。ですから、例えば、私、昨日、精進料理を頂かせて頂いた時でも。私は、はっきり言うたが良いと思うて。私はあの、金光教の教師でございます。この人達は、信者でございます、と言うて、まぁ申しましたんですけれどもね。ですから、言うたからじゃないけれども、やはり、食べ散らかして頂かずに、やっぱ、後片付けまでさせて頂いてから、帰らして頂いたんですけど。気持ちが良い、それの方が。
ほんなら、石狩山荘に参りましてからでも、やっぱり、そうです。まぁ本当にあの、行儀のよいと言うがね。その人達が、だいたい、いわゆる、そういう客筋が良いところだと思うですよね。一部屋、一部屋にですね。何十万する様な掛けものが掛けてありますよ。私共は、今度参りました時にも、ちょうどあの、玉屋で、そういう油絵の展示会があっておりましたがね。そこで見てきた絵の中にも、やはり、本当に驚きますですよね。この位ばっかりの、有名な絵描きが描いたのが、七十万とか、八十万とか言う。私共の部屋にも、あの、善三郎と言う人の描いた絵が、とにかくやっぱ、安く見積もっても、五六十万はするだろうと思われる様な絵が掛けてありますからね。やはり、行儀の悪い人達段が行ったら、大変なことだと思うんですけれどもね。ですから、私共がですね、本当にあの、何事にも信心になれよと仰るのですから。本当に、何事にも、信心にならせて頂く、そういう、普通の者が乱れるなら、普通の者が乱れる時ほど、こちらは、かえって、そこを大事にしてくるのです。ほんなら、飲んで騒いじゃならないというのじゃない。その中には、やはり、信心が、一本、ポンとこう筋金が通っとかねばいけない事になるのですね。影と日向の心を持つなとこう仰るが。本当に、私共が、影もなからなければ日向も無い。いや、むしろその、影ほど大事にするという頂き方こそです。私は、行儀のよい信心とは言えるのじゃなかろうか。形の上に於いては、私がいう、信心の節度。いうならば、羽織袴を着けた様な、きちっとした信心。そういう信心を、行儀のよいという信心じゃなかろうか。そういう、行儀の良い信心に、いわば、きちっとした節度の、折り目正しいおかげが、いただけてくるようになる。あの先生は、なかなか、行儀が良い。本当にもう、よがんだ事は、もう、これから先でも好きなさらん。とてつも好きなさらんと言われるような先生のところにです。もしです、きちっとしたおかげが現れていないとするなら、その人は、きっと、影を無茶苦茶にしておる人ですよね。影を疎かにしておる人ですよ。もう、金光様のご信心はね。そういう一つの、実証的なおかげと言うものが、必ず、影の形のように伴いますから、おかげが、しだごだになるなら、その人は、必ず、信心を、しだごだにしておる人なんです。または、自分自身にも、その事を思うて、なるほど、これじゃ、おかげが、しだごだになる筈だなぁと、分からせて頂いたら、そこんところを、きちっとした、信心を、頂き抜かせて貰うて。行儀の良い信心。きちっとした頂き方と言うものをです。身につけさせて貰うて、おかげを頂かねばならんと思うですね。どうぞ。